2012年4月15日日曜日

ラブ沖縄にお寄せいただいたコメント


辺野古、そして、高江。この二つの場所での闘いには、沖縄の人びとの、どうしても譲れない思いが込められているにちがいない。
 美しい海、空、森。そうした自然と共に、自分たちの土地で、平和で、安全な、普通の暮らしがしたいという思い。人間としてごくごく当たり前のそんな思いを、日米の巨大な国家権力によって踏みにじられ、軍事基地の恐怖のもとに置かれつづけて、なんと70年近くにもなるのだ。
 「本土」のマスメディアではほとんど伝えられることのない、辺野古と高江の闘いの現場。そこで闘う人びとの思い。本作品のカメラとインタビューは、それらを丁寧に捉えて、生き生きと画面に映し出してくれる。
この映画を観るとき、「本土」の日本人は、いやおうなく一つの問いの前に立たされる。私はどこにいるのか。私のいる場所は、この構図のなかで、どこに位置しているのか。どう考えても私は、沖縄に基地負担を押しつけることで、その負担を大幅に免れてきたヤマトゥの民の一員なのではないか。
 題して「ラブ沖縄」という。だが、誤解してはなるまい。「本土」の日本人は、この作品に横溢する沖縄の人びとの「ラブ沖縄」に、簡単に共感したり、唱和したりできるものではないのだ。この「ラブ沖縄」を踏みつけてきたのは、日本の国家権力と、その背後にいる「本土」の日本人でもあるのだから。
 この映画を「本土」で観て、消費するだけに終わってはならないだろう。沖縄の人びとが辺野古でも高江でも、その他のところでも、闘う必要がなくなるために自分は何ができるのか。それを考えなければならないのだと思う。

哲学者/高橋哲哉




この映画をじっくり観ること……そこから「それぞれの沖縄への愛」が始まる。地べたを這う目線で淡々と撮られたこの映画は、「大切な場所に座り込むこと」で「無力な個人でも国家の横暴に抵抗出来るんだ」という事を伝えてくれる。
人間は、海は、山は、やっぱり素晴らしい。
「ジュゴンやノグチゲラと共生できる人間」……その一人であり続けたいと、心から思った。

映画監督/長谷川和彦  




映像に記録しなければ広く伝わらない沖縄の理不尽な現実がある。この映像は「これを記録し伝えずにおくものか」という気迫がみなぎっている。「ドキュメンタリー映画」の原点を教えられた。

ジャーナリスト/土井敏邦



藤本・影山作品のしつこさは、対象の意味が観る者の肌にしみこむほどしたたかに届いたと、彼らが納得するまで続く。対象の多くは人だが、今回は出来事が前面に出ている。辺野古は、クロニクルと言うべき形式で、この七年をたたみかける。そして高江では、住民と当局のせめぎ合いを、そのただ中で何度も見届ける。海でもやんばるでも、作業員はほぼすべて沖縄の人だという事実、沖縄の人びとが分断され、苛立たしいいがみ合いを続けているという事実、その上をそ知らぬ顔で通り過ぎてゆく米軍機。冒頭近く、海兵隊は「本土から」沖縄に移ってきたという文字が出る。「山梨と岐阜」ではなく「本土」なのだ。この違和感は、観終わったとき、沖縄の現実をだらだらと続けさせているのは「本土」の私たちなのだとの思い定めへと変わる。私はそれを、鉛の固まりのように飲み込む。

翻訳家・作家/池田香代子



沖縄の米軍基地問題を長年にわたり追い続けている藤本幸久&影山あさ子監督による新作ドキュメンタリー映画。
5年前の長篇『マリーンズ・ゴー・ホーム』同様、カメラは、過剰な説明や小細工を抜きに、軍事基地立地が織り成す不条理な人間模様を映し出し、何故軍事信仰に反対するのか、何故人々は平和を希求するのか、という、市井の「平和に生きる権利」の本源を、憤怒をもって、あらわにする。
中央マスコミが伝えない、米海兵隊の辺野古新基地建設計画・米軍の高江ヘリパッド建設計画に反対し阻止行動を続ける人々の現場の声。本意ではないにせよ新基地建設に手を貸さざるを得ない沖縄防衛局の一人ひとりの横顔…。溜息の出る分断の光景は、最近マスコミがようやく思い腰を上げざる得なくなった原発立地の構造とあまりに相似形だ。
長年辺野古の阻止行動に参加している平良悦美さんの言葉の重み。「私たちにできることは、少しでも(基地建設を)遅らせていくための闘い。分をわきまえているっていうかな。その間に日本中、世界中が動いているじゃないですか。そんなふうにさ、世界中、日本中、沖縄中の心ある人たちが動いている、そのための時間作り、が私たちの、海の上の役割だと思ってる。だから、休めないの。休みたいけど」
一人でも多くの人に観て欲しい。「辺野古? 高江? その地名は聞いたことがあるけど…」というような人々にこそ。

中川敬<ソウル・フラワー・ユニオン>/ミュージシャン